9月11日です。テレビのないところで、3日目を迎えました。

 9月11日です。西粟倉温泉元湯で朝を迎えました。早いもので、9日の朝、青森を出て、その日の昼に大阪に着き。午後3時には、三重県名張市の赤目の森へ着いていました。夕方、暗くなるまえに里山を見学してまわり、暗闇を背に、心行くまで森の番長と語り明かしました。10日は今度は、いったん大阪にもどり、レンタカーで鳥取県兵庫県の県境にある美作街道の宿場町だった西粟倉村へ行きました。ここは林業の村でしたが、檜と杉の見事な美林の村でした。伐採した木材の貯木場とC材の保管ラックと薪製造所を見学し、冷泉のあわくら温泉に設置され稼働中のオーストリア製の2器の薪ボイラーと温水タンクなどの装置も見ることができました。そして、あわくら温泉元湯に泊まったのでした。夕方と朝にコーヒーを頼み、酒は前払いで生ビール2杯、清酒1合、それに焼酎水割り1杯を手酌で飲みました。ここでも、部屋にはテレビがありません。
 赤目の森の見回りの際には雨に見舞われましたが、11日朝の西粟倉の「100年の森構想」の森には、木を伐採するために林道が敷設中で、悪い木が次々と伐採され側道に土留めとして横置きされていました。合併を拒否して、自立する道を選んだ1500人の村民は、生き残りをかけて「100年の森構想」を立案し、その実現のために150人の移住者を迎え、森とその利活用による新たな起業を援助しています。限界集落の生き残り策としてぎりぎりの選択であったようです。

 今日の子規歳時は、
 萩茫今年は見たり来年は (1897年、明治30年9月11日)
 「今年の春以来脊髄なやみて夏はあるかなきかにかきくらし庭の秋見んこといかがあるべきと思ひしもいまだ命運尽きず今萩盛り薄なびくけしきをうれしくも打ちながめて」(明治30年9月11日病牀手記より)

 今日の魯迅箴言365日は、箴言62です。
  许多人的随便的哄笑,是一枝白粉笔,
 它能够将粉涂在对手的鼻子上,使他的活好像小丑的打诨。
 Xǔduō rén de suíbiàn de hōngxiào, shì yīzhī bái fěnbǐ, 
 tā nénggòu jiāng fěn tú zài duìshǒu de bízi shàng, shǐ tā de huó hǎoxiàng xiǎochǒu de dǎ hùn.
「多くの人のその場限りの哄笑は、一本の白墨であった。それは粉を相手の鼻の上に塗り付け、その話を道化役のギャグのようにしてしまうことができた。」
 その場限り;随便 suibian 哄笑;哄笑 hongxiao 白墨;白粉笔 baifenbi
 相手;对手 duishou 鼻の上;鼻子上 bizishang 道化役;小丑 xiaochou
 ギャグをいれる;打诨 dahun

 今日の論語一日一章は、論語10-23(論語巻第五 郷党第十篇 23章)です。
 色斯擧矣、翔而後集、曰、山粱雌雉、時哉、時哉、子路共之、三嗅而作、
  Sè sī jǔ yǐ, xiáng érhòu jí, yuē, shān liáng cí zhì, shí zāi, shí zāi, zilù gòng zhī, sān xiù ér zuò,
 色斯举矣,翔而后集,曰,三梁雌雉,时哉,时哉,子路共之,三嗅而作,
「色みて斯に挙がり、翔りて而して後に集(とど)まる。曰わく、山粱の雌雉(しち)、時なるかな、時なるかな。子路これを共す。三たび嗅ぎて作つ。」
(驚いてぱっと飛び立ち、飛びまわってからはじめてとまる。孔子はいわれた。「山の橋べのめす雉も、時節にかなっているよ、時節に。」このように孔子は、人の出処進退と考えあわせて鳥の動きに意味を認められたのだが、子路は時節の食べ物のことと誤解して、それを食膳にすすめた。孔子は三度においをかがれると席を立たれた。)