9月21日朝、森のイスキアの鐘で目覚めました。

 朝、6時に聞きなれない鐘の音が私の脳を刺激しました。湯段温泉の時雨庵の二階の部屋で森のイスキアの時の鐘を聴きながら、94歳まであと28年、時間を大切に、つねに充電を繰り返しながら生きていこうと誓ったのでした。「時間がほしい」、「充電したい」が初女さんの言葉でした。
 湯段温泉と嶽温泉は嶽きみがあふれ、充満していました。アップルロードはリンゴがたわわに実をつけていました。森のイスキア、時雨庵のあと、弘前を堪能しました。貞昌寺の山田良政・純三郎(孫文を助け革命を成功させた)の墓をたずね、陶芸家高橋一智の作品を保持しているというお菓子屋のおおさか屋に行きました。蕎麦屋の會が閉じたあとのその流れをくむそば処清水にも行って蕎麦を食べてきました。
 
 今日の子規歳時は、
 南無大師石手の寺よ稲の花 (1895年、明治28年9月21日)
 愚陀仏庵に病後の静養を続けた子規は、9月20日(明治28年)柳原極堂(当時は碌堂)とともに石手方面に散策し、翌21日には四人連れで城北山越方面へ散歩を試みたのでした。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言74です。
 历史上都写着中国的灵魂,指示着将来的命运,
 只因为涂饰太厚,废话太多,所以很不容易察出底细来。
 正如通过密叶投射在莓苔上面的月光,
 只看见点点的碎影。
 但如看野史和杂记,可更容易了然了,
 因为他们究竟不必太摆史官的架子。
 Lìshǐ shàng dū xiězhe zhōngguó de línghún, zhǐshìzhe jiānglái de mìngyùn,
 zhǐ yīnwèi túshì tài hòu, fèihuà tài duō, suǒyǐ hěn bù róngyì chá chū dǐxì lái.
 Zhèngrú tōngguò mì yè tóushè zài méi tái shàngmiàn de yuèguāng,
 zhǐ kànjiàn diǎndiǎn de suì yǐng.
 Dàn rú kàn yěshǐ hé zájì, kě gēng róng yì liǎo ránle,
 yīnwèi tāmen jiùjìng bùbì tài bǎi shǐguān de jiàzi.
「歴史書には、中国の魂が記してあり、将来の運命が指し示しているが、ただ分厚い装飾や無駄な話が多すぎるため、真相が見えづらいのだ。まるで茂みを通して苔の地面に差し込む月光のように、砕け散った明かりが点々と見えるだけである。ところが、民間の史書や雑記を読むと、かえってわかりやすいのだ。というのも、その書き手たちはさほど史官ぶって書く必要がなかったからなのだ。」

 今日の論語一日一章は、論語11-10(論語巻第六 先進第十一篇 10章)です。
 顔淵死、子哭之慟、從者曰、子慟矣、子曰有慟乎、非夫人之爲慟、而誰爲慟、
 Yán yuān sǐ, zi kū zhī tòng, cóng zhě yuē, zi tòng yǐ, zǐ yuē yǒu tòng hū,
 fēi fūrén zhī wèi tòng, ér shuí wèi tòng,
(颜渊死,子哭之恸,从者曰,子恸矣,子曰有恸乎,非夫人之为恸,而谁为恸,)
「顔淵死す。子これを哭して慟す。従者の曰わく、子慟せり。曰わく、慟すること有るか。夫の人の為めに慟するに非ずして、誰が為めにかせん。」
(顔淵が死んだ。孔子は哭泣して身をふるわされた。おともの者が、「先生が慟哭された!」といったので、孔子はいわれた、「慟哭していたか。こんな人のために慟哭するのでなかったら、一体だれのためにするんだ。」と。)