10月5日、めっきり朝晩の冷え込みが厳しくなってきました

 今日の子規歳時は、
 古塚や恋のさめたる柳散る (1895年、明治28年10月5日)
 道後に遊んだ子規と漱石は、宝巌寺に一遍上人誕生の地を弔い、「色里や十歩はなれて秋の風」、帰りには大街道の芝居小屋「新栄座」で、泉祐三郎一座の照葉狂言を見物、その後も一、二度見に行ったのでした。

 月曜日、新町の事務所へ午前中に出かけ、昼にもどり、午後は五所川原の梅田農園でNPO「ういむい未来の里」の役員会に出ました。理事長、副理事長、常務理事に理事2人の5人で2時間ほどこれからの活動について協議しました。
 夕方からはSDPの会議でした。18日のレセプションが主な内容でした。帰りにとり平に寄って、ついでに鶴亀食堂でかつ丼を食べました。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言88です。
 请朝虽然尊崇朱子,但止于”尊崇”,
 却不许”学样”,因为一学样,就要讲学,
 于是而有门徒,于是而有门户,于是而有门户之争,
 这就足为”太平盛世”之累。况且以这样的”名儒”而做官,
 便不免以”名臣”自居,”妄自尊大”。
 Qīngcháo suīrán zūnchóng zhūxī, dàn zhǐ yú” zūnchóng”, 
 què bùxǔ” xué yàng”, yīn wéi yī xué yàng, jiù yào jiǎngxué, 
 yúshì ér yǒu méntú, yúshì ér yǒu ménhù, yúshì ér yǒu ménhù zhī zhēng, 
 zhè jiù zú wéi” tàipíng shèngshì” zhī lèi. Kuàngqiě yǐ zhèyàng de” míng rú” ér zuò guān, 
 biàn bùmiǎn yǐ” míng chén” zìjū,” wàngzìzūndà”.
清朝では、朱子学を尊崇したけれども、単に『尊崇』にとどまらず、『学派』とすることを許さなかった。一学派になれば、講学が必要になるとともに、学説が必要になり、門人も必要であり、流派もできあがるし、流派の争いが起こるからであった。これが『太平盛世』の禍の種になるからであった。いわんや、こうした『高名な儒者』が官僚になっていくと、『名臣』を自ら自負し、『妄自尊大』を免れないことにとになるからだ。」

 今日の論語一日一章は、論語11-23(論語巻第六 先進第十一篇 23章)です。
 子畏於匡、顔淵後、子曰、吾以女爲死矣、曰、子在、囘何敢死、
 Zi wèi yú kuāng, yányuān hòu, zǐ yuē, wú yǐ nǚ wèi sǐ yǐ, yuē, zi zài, huí hé gǎn sǐ。
(子丧於匡,颜渊后,子曰,吾以女为死矣,曰,回何敢死,)
「子、匡に畏る。顔淵後れたり。子曰わく、吾れ女(なんじ)を以て死せりと為す。曰わく、子在(いま)す、回何ぞ敢えて死せん。」
孔子が匡の土地で危険にあわれたとき、顔淵がおくれてきた。孔子が「わたしはお前が死んだと思ったよ。」といわれると、「先生がおられるのに、回(このわたくし)がどうして死んだりしましょうか。」と答えた。)