10月6日、稲わら収集のボランティア活動をしてきました

 今日は10月6日、火曜日です。午前中、高田の田んぼで「稲わらふりーでん」のボランティアの活動をしました。所属するNPOが主催する年1回のイベントだからです。
 午後には新町の事務所へ行き、少し仕事をして、スケジュールを確認して6時に事務所をあとにしました。9月から来年1月までは、GEA理事として市の補助事業の仕事の一部を担うことになったためです。
 そんなわけで、他に用事がないときは日中を事務所にいて仕事をすることにしました。仕事といってもそんなに過重なわけでもなく、報告書と企画書を書く作業以外は自分の仕事も事務所ですることも可能になりました。拘束されているわけではありませんが、少しでも仕事をすることで、居場所を確保してもらえるのがありがたいのです。

 今日の子規歳時は、
 朝寒うあたのもと響く内玄関 (1895年、明治28年10月6日)
 10月7日には今出の村上霽月を訪問し、途中正宗寺に立ち寄り住職釈仏海(一宿)を誘っています。一宿は子規の俳弟子で、のち境内に埋髪塔を建てた人でもありました。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言89です。
 清的康熙,雍正和乾隆三个,尤其是后两个皇帝,
  对于”文艺政策”或说得较大一点的”文化统制”,
 却真尽了很大的努力的。
 文字狱不过是消极的一方面,积极的一面,
 则如钦定四库全书,于汉人的著作,无不加以取舍,
 所取的书,凡有涉及金元之处者,
 又大抵加以修改,作为定本。
 此外,对于”七经”,”二十四史”,≪通鉴≫,
 文士的诗文,和尚的语录i,也都不肯放过,
 不是鉴定,便是评选,
 文苑中实在没有不被蹂躏的处所了。
 Qīng de kāngxī, yōngzhèng hé qiánlóng sān gè, yóuqí shì hòu liǎng gè huángdì,
 duìyú” wényì zhèngcè” huò shuō dé jiào dà yīdiǎn de” wénhuà tǒngzhì”,
 què zhēn jǐnle hěn dà de nǔlì de.
 Wénzìyù bùguò shì xiāojí de yī fāngmiàn, jījí de yīmiàn,
 zé rú qīndìng sì kù quánshū, yú hànrén de zhùzuò, wúbù jiāyǐ qǔshě,
 suǒ qǔ de shū, fán yǒu shèjí jīn yuán zhī chù zhě,
 yòu dàdǐ jiāyǐ xiūgǎi, zuòwéi dìngběn.
 Cǐwài, duìyú” qī jīng”,” èrshísì shǐ”,≪tōng jiàn ≫,
 wénshì dì shī wén, héshàng de yǔlù i, yě dū bù kěn fàngguò,
 bùshì jiàndìng, biàn shì píngxuǎn,
 wényuàn zhōng shízài méiyǒu bù bèi róulìn de chùsuǒle.
「清代の康熙帝雍正帝乾隆帝の三人の皇帝、そのうち後代の二人の皇帝は、どちらも『文芸政策』あるいはもうちょっと大げさにいえば、『文化統制』ということについて、とても努力しつくしたのだ。言論の弾圧にはかつて消極的である一面、積極的な一面もあったのだ。四庫全書を欽定したかと思うと、漢人の著作について、その本をすべて取捨選択をしたうえに、金や元に時代に至るところものまでを改訂を加え、定本を作ったのでした。このほか、『七経』や『二十四史』とか、≪通鏡≫、文士の詩文、高僧の語録、などいずれも、鑑定もしないし、評定もしないし、文壇のなかで、蹂躙されることなどないように、見過ごしたりもしなかったのでした。」

 今日の論語一日一章は、論語11-24(論語巻第六 先進第十一篇 24章)です。
 李子然問、仲由冉求、可謂大臣興、子曰、
 吾位子爲異之問、會由與求之問、所謂大臣者、
 以道事君、不可則止、今由與求也、可謂具臣矣、
 曰、然則從之者與、子曰、弑父與君、亦不從也、
 Lǐzǐ rán wèn, zhòng yóu rǎn qiú, kěwèi dàchén xìng, zǐ yuē,
 wú wèizi wèi yì zhī wèn, huì yóu yǔ qiú zhī wèn, suǒwèi dàchén zhě,
 yǐ dào shì jūn, bùkě zé zhǐ, jīn yóu yǔ qiú yě, kěwèi jù chén yǐ,
 yuē, ránzé cóng zhī zhě yǔ, zǐ yuē, shì fù yǔ jūn, yì bù cóng yě,
(李子然问,仲由冉求,可谓大臣与,子曰,吾位子为异之问,会由与求之问,所谓大臣者,以道事君,不可则止,今由与求也,可谓具臣矣,曰,然则从之者与,子曰,弑父与君,亦不从也,)
「季子然問う、仲由・冉求は大臣と謂うべきか。子曰わく、吾れ子を以て異なるをこれ問うと為す、會ち由と求とをこれ問う。所謂大臣なる者は、道を以て君に亊え、不可なれば即ち止む。今、由と求とは具臣と謂うべし。曰わく、然らば即ちこれに従わん者か。子曰わく、父と君とを弑せんには、亦た従わざるなり。」
(季子然が「仲由と冉求とはすぐれた臣といえるでしょうな。」とたずねた。孔子はいわれた、「わたしはあなたがもっと別なことをたずねられると思いましたが、なんと由と求とのことですか。すぐれた臣といわれるものは道によって主君にお仕えして、うまくいかないときは身を退きますが、この由と求とは諌めるべきときに諌めず、頭数だけの臣というべきでしょう。」「それでは、主人のいいなりになるものですか。」というと、孔子はいわれた、「父と君とを殺すようなことには、やはり従いません。」と。)