10月15日、今日は北狄の合評会です

 10月15日は待ちに待った年金支給日です。この2カ月がなんと長かったことか。
 北狄372号には、9人の同人が作品をよせています。
 まず第一が、倉谷ひろたかさんの長篇詩「金の鶴銀の鶴(一)」です。
 原稿用紙87枚の「禅林街のマリア様」という副題がついた長篇詩です。津軽流人キリシタンの物語だ。マリアゆきとその子孫のまりあ志乃。初代マリアの着た着物に描かれた金色の鶴と銀色の鶴。二番目が高畑幸さんの「きらめく大きな星」。友好の翼に同行した鈴木政次郎さんの話だ。真珠湾攻撃した軍艦の乗組員で、復員後、起業して成功した立志伝中の人物のことだ。三番目は、札幌の小野誠二さんの「ユリノキの話」。四番目は埼玉在住の南条世子さんの「元祖サッカーなでしこジャパン」で大正10年の女子サッカー選手の話。五作目は、宰木陽二の「末期」。冬彦秋雄の老人二人が名前を思い出せなくなった嘆いている間に、同じ同級生の春川から夏原の訃報をきく。夏原夫人のトシ子が冬彦の元ガールフレンドという設定。夏原の末期の水をトシ子があげたのかと感慨にふける冬彦を6枚の掌編にまとめた。時代物、歴史小説を白川光が「無明と光明」として六番目に載せている。7番目が、東奥文学賞の青柳隼人の「眠らない湖」。十和田湖の湖底に沈んでいたゼロ戦を引き上げた事件を取材して書いている。8番目が「おふくろの眼鏡」、ついで秋村健二の「同期会までに」がトリ。

 今日の子規歳時は、
 秋もはや日和しぐるる飯時分 (1895年、明治27年10月15日)
 愚陀仏庵のある日、漱石は学校から帰ってくると、ポケットから何かをつかみだし、子規の室の火鉢の下へ敷くと黙って二階へ上がったそうです。それは十円紙幣でした。そう柳原極堂の話です。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言97です。
 中国人的确相信运命,
 但这运命是有方法转移的。
 所谓”没有法子”,有时也就是一种另想道路
 ――转移运命的方法。等到确信这是”运命”,
 真真”没有法子”的时候,
 那是在事实上已经十足碰壁,
 或者恰要灭亡之际了。
 运命并不是中国人的事前的指导,
 乃是事后的一种不费心思的解释。
 Zhōngguó rén díquè xiāngxìn yùn mìng,
 dàn zhè yùn mìng shì yǒu fāngfǎ zhuǎnyí de.
 Suǒwèi” méiyǒu fǎzi”, yǒushí yě jiùshì yī zhǒng lìng xiǎng dàolù
 ――zhuǎnyí yùn mìng de fāngfǎ. Děngdào quèxìn zhè shì” yùn mìng”,
 zhēn zhēn” méiyǒu fǎzi” de shíhòu,
 nà shì zài shìshí shàng yǐjīng shízú pèngbì,  
 huòzhě qià yào mièwáng zhī jìle.
 Yùn mìng bìng bùshì zhōngguó rén de shìqián de zhǐdǎo,
 nǎi shì shìhòu de yī zhǒng bù fèi xīnsī de jiěshì.
 「中国人は確かに運命を信じない。ただ、この運命というは変わるものだからだ。所謂、”方法がない”のなら、別の道を考えるのだ。――つまり、運命を変える方法をだ。本当に”ほかに方法がない”ときには、事実上に完全に行きづまるか、滅亡するときなのだ。だから、運命は中国人を事前に導くものではなく、事後にちょっとなるほどと納得する程度のものに過ぎないのだ。」

 今日の論語一日一章は、論語12-6(論語巻第六 顔淵第十二篇 6章)です。
 子張問明、子曰、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、
 可謂明也已矣、浸潤之譖、膚受之愬、
 不行焉、可謂遠也已矣、
 Zi zhāng wèn míng, zǐ yuē, jìnrùn zhī zèn, fū shòu zhī sù, bùxíng yān,
 kěwèi míng yě yǐ yǐ, jìnrùn zhī zèn, fū shòu zhī sù,
 bùxíng yān, kěwèi yuǎn yě yǐ yǐ,
(子张问明,子曰,浸润之譖,腐受之愬,不行焉,可谓明也已矣,浸润之譖,腐受之愬,不行焉,可谓远也已矣,)
「子張、明を問う。子曰わく、浸潤の譖、膚受の愬、行われざる、明と謂うべきのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行われざる、遠しと謂うべきのみ。」
(子張が聡明ということをおたずねした。孔子はいわれた、「しみこむようなじわじわとくる悪口や、肌身に受けるような痛切な訴えには人は動かされやすいものだが、よく判断できてそれらが通用しないようなら、聡明といってよいだろう。しみこむようなじわじわとくる悪口や、肌身に受けるような痛切な訴えが、よく判断できて通用しないようなら、見通しがきくといってよいだろう。」と。)