魯迅箴言日記 2020/10/28 大仏の足もとに寐る夜寒かな  

 今日は10月28日、水曜日です。昨夜は白神館で、8時40分に眠りました。今朝は2時に起き、5階の温泉に入りました。単純泉で奇麗な温泉でした。匂いもほとんどありません。2時から6時まで日課をやり、6時半に旧館の大浴場へ入りに行きました。三つの浴槽を渡って入り、十分に身体を温めました。8時に朝食をとり、8時45分にチェックアウトして、役場に向いました。

 役場の会議室で、農業委員会事務局長でバイオマス推進室長の竹内さん、水道課長の成田さんと水道の担当者、西目屋薪エネの社長の虎澤さんと11時半まで小水力、薪エネの現状、村のSDGsの取り組み、県民エナジーからは自治体新電力と地域振興の取り組みなどについて意見交換し、西目屋の水道施設では小水力の水量と落差ともに不足していることから、温泉の泉源からの導管を使う可能性について調査して見ることになりました。

 西目屋のあと、五所川原市役所に向い、井上前市議の案内で上下水道部の三和不二義部長(合併前の市浦村時代の友人)と四年ぶりの再会を果たしました。水道課の施設室長の案内で、飯詰の浄水場、工業用水の配水池を見て回りましたが、いずれも水量(0.1㎥/秒)と落差(25m)の両方をクリヤーできないことがわかりました。市役所に戻り、ホールで他の施設の図面を見ながら協議した結果、七和の水道資源が可能性があることがわかりました。

 3時から4時まで市長室で、施設見学調査の結果を佐々木市長に報告し、七和の調査を行うことの了解を求め、ひきつづき小電力発電の可能性・事業性の調査を行うこととなりました。併せて、工業団地の企業誘致に自治体新電力や再エネ電力の使用でSDGs積極推進の自治体として広報活動を強めることでも協力することで一致しました。

 五所川原市役所で、三和部長と青森で会談することを約束し、井上さんと別れ、青森に戻りました。古川の事務所前で、八戸に戻る富岡さんたちと別れ、テレビ会議をするというダイキンの上野さんに部屋を貸し、6時40分に上野さんを新青森駅まで送り、三日間の行動を終了しました。

 

 今日の子規歳時は、「大仏の足もとに寐る夜寒かな」(明治28年)です。子規は奈良に三泊しています。

 

 今日の日本国憲法は、憲法第89条です。

 第89条〔公の財産の支出・利用提供の制限〕

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 

 今日の魯迅箴言は、箴言365日の第145日目「我々には痛覚というものがあるが、」です。

 原文;

 我们有痛觉,一方面是使我们受苦的,而一方面也使我们能够自卫。假如没有,则即使背上被人刺了一尖刀,也将茫无知觉,直到血尽倒地,自己还不明白为什么倒地。但这痛觉如果细腻锐敏起来呢,则不但衣服上有一根小刺就得,连衣服上的接缝,线结,布毛都要觉得,倘不穿「无缝天衣」,他便要终日如芒刺在身,活不下去了。但假装锐敏的,自然不在此例。

 拼音;

 Yǔ míngliú xuézhě tán, duìyú tā zhī suǒ jiǎng, dāng zhuāng zuò ǒu yǒu bù dǒng zhī chù. Tài bù dǒng bèi kàn jīng, tài dǒngle bèi yànwù. Ǒu yǒu bù dǒng zhī chù, bǐcǐ zuìwéi héyí.
 訳文;
 我々には痛覚というものがあるため、苦痛を与えられもするが、同時にそれによって自分を衛ることもできる。仮にそれがなかったとするならば、人は刀で背中を刺されても、全然知覚がなく、血がつきて地に倒れるまで、自分でもなぜ地に倒れたのかわからないだろう。しかし、この痛覚が繊細鋭敏になって来ると、着物の上に小さなトゲがあってもすぐに感じ取るばかりでなく、着物の縫い目や糸の結び目、布地の毛さえも痛さを感じて、「無縫の天衣」でも着ないかぎり、終日身体じゅうトゲに刺されているようで、とても生きてはいけないだろう。もっとも、鋭敏なふりをしているのは、むろんこの限りではない。