魯迅箴言日記 2022/11/23 真中に碁盤すゑたる毛布かな(明治33年、1900年)

 今日は11月23日、水曜日ですが、勤労感謝の日です。昨日は選挙の祝勝会と四人会を掛け持ちし、最後に落ち合う予定の山下さんが帰ってしまったので、ひとりで王味に行き、塩ラーメンを食べて帰りました。そんなわけで昨夜は魯迅箴言日記の更新をしているうちに眠ってしまいました。6時間かけて風間浦村まで往復し、その3時間かけて新報を配り、さらに10km以上自転車で走ったのですから疲れるはずです。それでも今朝は6時前に起きて、机に向かいました。日課はすこぶる順調です。三四郎も、糟糠の父も面白いですし、俳句への道も作句へもう一歩です。経済学・資本論関連の勉強も、同じ画面でキンドルの本を見ながら、書き写しているので頭に少しずつ入ってきています。高木仁三郎さんの「核燃料サイクル施設批判」は第1部からⅢ部までおわったので、今週から「プルトニウムの恐怖」のキンドル版で勉強を開始しました。

 3つのブログとひとつホームページも軌道に乗りましたので、あとはGEAのホームページを家でもできるようにすれば、私の日常は万々歳です。問題は小説を書く時間をどうつくるかです。

 今日の子規歳時は、「真中に碁盤すゑたる毛布かな(明治33年、1900年)」です。

 子規は碁に明るく、将棋もそこそこに強かったようです。病気で夭折しなかったら、子規はどんな文芸家になったことでしょう。漱石以上の文豪になったかもしれません。正岡子規に匹敵する天才が寺山修司だったような気がしています。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-58「中国の昔の人は、」です。

 中国古人,常欲得其「全」,

   就是、制妇女用的「乌鸡白凤丸」、

   也将全鸡连毛血都收在丸药里,

   方法固然可笑,主意却是不错的。

   删夷枝叶的人,决定得不到花果。

 中国の昔の人は、いつもその「全体」を手に入れたがった。

 女性用の「烏鶏白鳳丸」を作るにしても、

 鶏まるごと、毛や血までもすべて丸薬に入れる。

 やり方は笑うべきだが、主意としては悪くない。

 枝葉を切り落としてしまう人は、花も実も得られはしない。

zhi