8月23日が記念日

イメージ 1  8月23日は記念日である。
 昨年同日午後2時過ぎ、仙台空港を発ち、日本海そしてロシア上空を経て満州に入り、夕方、まだ残暑きびしい長春についた日である。わずか2時間半の飛行だったが、時差1時間を加えても、それ以上に長く感じられた。
 それからの4カ月と1週間は、それこそ長い時間だった。これまでに経験したことのない世界に身を置いた感じだった。そこは、14億人近い国民がひしめいている漢民族を多数としながらも多くの少数民族が玉石混淆のように融和しつつ、一方では凌ぎを削っている国でもあった。あまりに人間が多く、ひとりひとりの人間に興味があっても捉えきれないのであった。
 しかし、このまま単身で中国にいると中国人と中国文化に同化してしまうのではないかと感ずるほど魅惑的な国でもあった。それはまずいと思った。日本に帰れなくなるのではないかとも思った。それで、頑なに日本語で通した。長春に4カ月居て、ついに話せたのはニイハオ、とシエシエ、ザイチェンだけであった。長春以外で足を運んだのは、大連とハルビンだけだった。その4日以外は、すべてキャンパス内の外国人公寓2階の自室で就寝し、毎朝6時に起床した。
 最初の2カ月はほとんどキャンパス内に閉じこもっていた。中国語はできないし、日本語科の学生ともコンタクトがとれないでいたため、どこへも出かけられず、教室と研究室、そして学食、それから宿舎の間を往復するだけだった。毎日、毎日、日本語と向き合うだけの日々だった。そうするうちに、自分は囚われの身ではないかと錯覚することもあった。135人の教え子と気持ちが通じ合うようになればなるほど、窮屈な環境に閉塞感を抱く度合いが増していった。中国人の学生と日本語だけで意思疎通できると考えていたのが間違いであったと気付いた時はすでに遅かった。学生と日本語で話していて、自分が日本人でなくなっているという不思議な感覚であった。
 そんなこんなで、暮れにあわただしく帰国して、家族と正月を過ごしているうちに、漸く日本人にもどれたような気がしたのだった。
 それから8カ月。未経験の日本語教育のため拘禁状態の4カ月とは比べ物にならない自由を手に入れることができた。自由に明日のために今日という時間を使える喜びである。明日のために今日を拘束されるのは還暦過ぎの新人教師には酷であった。
 そんなことを考えながら、日本語と相変わらず向き合いつつ、楽しく中国のことと中国語を学んでいる。中国を知り、中国人のことを知るためには、どうしても中国語が読め、会話し、書けなければならないことを知ったからである。
 8月23日はそのことの記念日でもある。
 写真は、いまの長春駅前である。