中国の歴史に学ぶ

中国の古代で最初の王朝は、殷の前に夏という最古の国家があったといわれれいる。およそ四千年も前の頃である。舜から兎、桀までに17代も続いたという。
 その後、中原(黄河の周り)は殷の湯王によって統一され、それが武王によって滅ぼされ、周の時代となり、周が成周へ遷都(東周)することにより戦乱の春秋時代へとつながっていく。
 この時代、孔丘(のちの孔子)は小国魯の都・曲阜から30キロくらい離れた陬邑に生まれ、八歳のころから魯の役人を引退した師について学問をはじめた。三歳で武人の父が死に、妾だった母とともに農業の傍ら八年間、学問を続け、母と師の死去のあと、18歳で単身、曲阜に出て、小官吏となる傍ら、日夜勉強を続ける。
 昼休み、書店に通い、書店主の孫がやっている隣の串焼き屋の娘に惚れる。書店の主人も、隣国宋の元役人で、諌言して国を追われた人だった。この人が孔丘の第二の師となる。
 孔子(孔丘)は19歳で師の孫楽と結婚する。楽18歳。終生楽を愛し、楽も孔子を愛する。
 魯の下級役人をしながら学問を続けるうちに、孔丘は自らも魯の開祖、周公旦(周の宰相)のように国を平安に治め、民に信頼される政治を行う宰相になりたいと思うようになる。
 大臣に願い出て、友人南宮敬叔とともに二年間、周の都・成周に遊学することを許される。ここで、老子に出会い、無為自然を教わる。二年間で、礼・楽を学び、魯の曲阜に戻り、孔丘学塾を開く。
 ここから、孔子自らと同門の弟子たちの魯をはじめとする諸国への仕官を模索する。
 孔子は魯の昭公に重用され、小官吏から次々に功名をとげ、宰相代行までのぼりつめる。しかし、斉の罠にはまった昭公を諌めたことから国を追われることになり、弟子10人を伴い、諸国へ仕官の旅に出ることになる。
 孔子は14年にも及ぶ長旅で一度も曲阜に戻ることなく、苦難の旅を弟子たちと続けるのだ。どんな苦難も、それが天命と考え、徳を行い、仁をなすために、諦めることなく旅を続ける。
 魯に戻り、再び顧問として、政に参画する機会に恵まれたのは、65歳を過ぎてからだった。最愛の妻・楽にも死なれ、孔子は大いに気落ちするが、息子と孫の存在に救われる。
 孔子は100人を超える弟子、孫弟子に囲まれて73歳の生涯を終えるのだ。弟子たちは、孔丘学塾の庵の周りで3年間喪に服し、子貢は更に3年服喪したという。