君子の四つの徳

論語」の「公冶長05」に、「05-16 子謂子産。有君子之道四焉。其行己也恭。其事上也敬。其養民也惠。其使民也義。」という章があります。この章の読み下し文は次の通りです。
 「子、子産(しさん)を謂う。君子の道、四つあり。そのおのれを行なうや恭(きょう)。その上(かみ)に事(つか)うるや敬(けい)。その民を養うや恵(けい)あり。その民を使うや義(ぎ)あり。」
 というものです。
 ここで、子とは勿論、孔子のことです。子産とは、春秋時代の鄭(てい)という魯から遠く離れた東周の都の成周(いまの洛陽)南東の隣国の名宰相で、公孫僑というあざ名の人のことです。紀元前522年、孔子が31歳のときに死んだといわれています。孔子はこの子産に少なからず、影響を受けたと言われています。
 では、孔子の生涯はよく知られていますが、もう一度振り返ってみます。
 孔子は紀元前551年魯の国の都・曲阜郊外の昌平郷の陬邑(すうむら)に生まれ、15歳で学問に志し、曲阜に出て孔丘学塾をおこし、34歳で周の都・成周(いまの洛陽)に行き、そこで道教の始祖・老子に会ったとされています。
 魯の国政が乱れるのを案じていた孔子でしたが、漸く51歳のとき魯の中都に宰(町長)に招聘され、以後どんどん実績をあげ宰相代行までなるのですが、55歳のときに定公を諌めて職を辞し、衛、宋、鄭、陳、蔡、楚、衛などの諸国を新たな仕官先を求めて弟子たちを連れ14年間も流浪・漂泊の旅を続けました。
 68歳のとき、魯の国老に招かれ、衛から魯に戻り、紀元前479年、73歳で孔子は孫と多くの弟子たちに囲まれて亡くなりました。
 この章の中野孝次訳はこうです。
孔子さまが子産を評していわれた、「子産には君子の徳が四つ備わっていた。己れの身を持する上ではつつしみ深く(恭)、目上に対してはうやうやしく(敬)、人民の政策では恵み深く(恵)、人民を使うときには公正(義)であった」。
 この君子の四徳について、朱子は恭を「謙遜」、敬を「謹恪」、吉川幸次郎の「論語」では、恭を「慎重」、敬を「敬虔」と註している。
 いづれにしても、己を持する上では慎み深く、目上に対してはうやうやしくする、その心持で行動すれば、人間関係がやわらいで、ぎくしゃくしないでいくということを孔子は子産のことをさして言っているのです。
 困難な状況の中で、孔子の一時代前の子産が、人に侮られず、主張すべきは主張し、しかも争いを起こさずに、平和を維持できたのは、子産の四徳の思想が正しかったからですが、このように子産が示した恭・敬・恵・義という態度が、人びとを心服させたからだと思います。
 今日なお、強者が弱者をいたぶる時代にあって、己の正しいと信ずることを行うには、時代が悪いときほど、恭と敬が有効だったことが春秋時代の過去においても証明されているのだから、一人ひとりが恭・敬・恵・義について考え直してみる必要がなかろうか。