今日は6月9日、日曜日です。朝、6時に起き、顔を洗い、風呂を沸かし、髭を剃り、着替えをし、薬を飲んで、7時10分に家をでました。
7時43分の新幹線で仙台へ行きました。地下鉄で八木山動物園に直行し、年間パス(6月30日まで有効)で入場しました。3頭のカバがそれぞれ立ち位置を維持していました。池の中の2頭が息継ぎで顔を覗かせたときに写真を取りました。
地下鉄を乗り継いで、研究会へ出ました。昼食休憩中に、川柳教室の宿題を提出しました。研究会は2時過ぎに終わり、1本早い便に変更しようとしましたが、混んでいて間に合いませんでした。待合室で1時間、タブレットで仕事をしました。
新幹線でも仕事をしました。同期会の進行表、GEA議事録、明日出す連絡メモなど文書をつくりました。1カップ100円の珈琲にはまっています。車内販売は高くしかも不味いのです。
青森へ着いて、浜すしへ寄り、それから妻のいる県病へ行きました。家でまた文書の補強をしました。
標題の句は、明治29年のこの日、漱石が熊本へ赴任し、そこで結婚式をあげたときに送った祝句です。
我们有痛觉,
一方面是使我们受苦的,
而一方面也使我们能够自卫。
假如没有,则即使背上被人刺了一尖刀,
也将茫无知觉,直到血尽倒地,
自己还不明白为什么倒地,
但这痛觉如果细腻锐敏起来呢,
则不但衣服上有一根小刺就觉得,
连衣服上的接缝,线结,布毛都要觉得,
倘不穿”无缝天衣”,
他便要终日如芒刺在身,
活不下去了。
但假装锐敏的,自然不在此例。
我々には痛覺というものがあるため、
苦痛を与えられもするが、
同時にそれによって自分を衛ることもできる。
仮にそれがなかったとすれば、人から刀で背中を刺されても、
全然知覚がなく、血が尽きて地に倒れるまで、
自分がなぜ地に倒れたのかわからないだろう。
しかし、この感覚が繊細・鋭敏になってくると、
着物の上に小さな棘があっても、すぐに感じとるばかりでなく、
着物の縫い目や糸の結び目、布地の毛にさえも痛さを感じて、
『無縫の天衣』でも着ない限り、
終日体中を棘にさされているようで、
とても生きてはゆけぬだろう。
もっとも鋭敏なふりをしているのは、むろんこの限りではない。